小千谷の豪商、西脇家について Introduction
西脇家は江戸時代の元禄年間に小千谷来住したと伝えられており、早くから縮仲買業を始め着実にその巨大な財力の基礎を固めた。やがて商売によって生じた余裕金は貸金と土地投資に向けられた。
安永(1772年~)・天明(1789まで)のころの当主吉蔵は町年寄役(江戸時代の町政を司る町役人の筆頭に位置する者)を勤めており、寛政(1789~)のころには小千谷屈指の大地主に成長していた。
縮問屋として資産を貯え、更に土地投資に振り向けて地主となるという経路は、小千谷の富商の大部分が歩いた一筋道であった。
後に西脇家が中心となって西脇銀行を設立した。
明治26年10月小千谷銀行に改組し、更に昭和5年8月第四銀行に合併される。
西脇清一郎は新潟の第四銀行の設立発起人となり同行の副頭取に就任し、西脇吉郎右衛門は2度、西脇悌次郎は3年間同行の取締役に就任していた。
そして小千谷町の産業は織物業・蚕糸業・麻真田業で、金融会社はこれら産業を経済的背景として設立され発展した。創立当初の役員は頭取西脇国三郎、取締役山口権三郎・大塚益郎・久保田弥三右衛門・山本庄左衛門・西脇寛蔵・高野又七の6人からなっていた。運営の中枢は商人資本にあった。
小学校の設立・学校資本金に西脇吉郎右衛門らの寄付でまかなわれた。
旭橋の架設には西脇国三郎と久保田右作の共同出資によって架設された。
国三郎の息子済三郎は共立小千谷病院の創立者の一員となる。
そして、大正10年に創立50周年を迎えることになった小千谷小学校は生徒数が増加して収容出来ない状態となり、西脇済三郎が校舎全部を新築して町に寄付した。
西脇清一郎の孫の西脇順三郎は、小千谷中学校を経て大正6年に慶応義塾大学理財科を卒業し、詩作を志すようになった。大正14年英文の処女詩集をロンドンで刊行、同年十一月に帰国し母校の教授になった。後にノーベル文学賞の候補に何度か選ばれた。
その後多くの詩集を出して最大の詩人と言う評価を得た。なお、市域の学校のために多くの優れた校歌を作詞しており小千谷の名誉市民となっている。
名誉市民2名が西脇家から出ている。(小千谷市史より)